「……ったく、たまんねーよな!」 げしっ、と船底を蹴りつけ、キッドは天に向かって悪態をついた。 「風吹け、風!何でこんなところで急に、風が止まるんだよ!」 ――周囲は見渡す限り、青、青、青。 一面に海が続いている。そしてその上に広がる、雲一つない青空。果てなく平らに広がる世界に陽が差して、凪の海面がきらきらと細かく煌めいている。 水平線に、島影はない。大海原の真っ只中――群島のエルニドで、こういう地点はごくわずかしかない。何処でも大概は、あちこちに島の姿が見え、たとえ方向を見失っても、陸の陰さえ追って行けば、何とか切り抜けられるとまで言われている海域なのだ。 それがこの有様だ。キッドは大きく息を吐くと、マストの傍らに座り込んだ。船を進めてくれる筈の帆は、今はただ力なくたわんでいる。完全に風が止まってしまったようだ。 こじんまりした赤いボートは、この帆以外には、ろくに推進機関を備えていない。小さなオールが一組あるが、これは港内で方向を変える時に使うのがせいぜいで、海のど真ん中では毛ほどの役にも立ちはしない。 エルニドの海の民は、時刻を測り、風を読んで、目的の場所へと船を進めるのだ。日中様々に変化する風にあわせて航海しなければ、たちまち船は立ち往生してしまう。 ――へいへい、どーせオレは悪い見本ですよ。ろくに計算しないで船を出しましたよ。 内心で悪態をつきながら、キッドはごろりと船底に寝転がった。――かつて仲間と旅していた時には、いささか狭く感じたこの船も、こうしてひとりで操船していると、びっくりするほど大きい。キッドが大の字で横たわっても、まだ充分にスペースが余る程なのだ。 中途半端な余白――ぽかりと空いた、風景。 「……ったくよー……」 降り落ちる陽が、眩しい。キッドは手をあげ、顔を覆う。 この船を譲ってくれ、という唐突な申し出に、コルチャは黙ってただ頷いた。大事にしてたボートなのに、悪いなと言うと、また作ればいいんだから、とコルチャは横を向いてぶっきらぼうに答えた。たぶん表情を見られたくなかったのだろう。 ずっとここにいてもいいのに、と笑うママチャには礼を言って、見慣れたガルドーブから最後の出港をした。 岸辺に立ったメルが、おいおい声を上げて泣きながら、いつまでもいつまでも手を振って見送ってくれた。苦笑して顔を上げると、龍の社の前で老若二人の巫女が、静かにこちらを見つめていた。 感動的な船出だった。 なのに……半日と経たない内に、この様である。 止まった風に、動かない船。どちらを見ても、見渡す限り海ばかり――怒りを通り越して、キッドは失笑する。なんてカッコがつかないのだろう。大陸に名を馳せたラジカル・ドリーマーズが、海の最中で迷子だなんて……海賊は陸に上がるとへたれると言うが、逆に陸の盗賊が海に出た場合も、本領発揮する間もなく、舵を失ってしまうのだろうか。 ひとわたり笑うと、急にむなしさが込み上げて来た。 顔を覆ったてのひらの下で、目を閉じる。それでも日差しはじりじりと、重さのあるもののように、指の上からのしかかって来る。頬が、暑い。風が止まっているから、空気もむっと熱を持ったまま、船底に澱んでたまっていく。 弱い波が、船を静かに洗う。かすかな揺れ、同じ速度で、繰り返し、繰り返し……響く潮騒と心地よいゆらぎ。 それは古い記憶にひたるのに似ている。止まったような時の中で、ゆらゆらと漂う曖昧な意識。 「あいつは……さすがに、船の扱いは巧かったよな。ま、地元で毎日船に乗ってたんだろうし……今も、たぶん……」 風をはらんで膨らむ帆。 滑るように進む船。かき分けられる波。極上の晴天。マストを掴んで、腕を延ばして、舳先に立って行く手を見つめるその瞳……。 つい先日までの「現在」が、いつのまにか「過去」になって、どんどん遠くへ去って行く。残されるただ一人の、胸に灼きつくあざやかなイメージ。それは何故だか、何の変哲もない、意味のない、いつのことだったのかも覚えていないような、単純な一シーンなのだ。 もっといろんなことがあったのに。いろんな風景を、一緒に、見た筈なのに……多くは記憶の彼方に溶けて混ざり、境目のつかない意識の底に消えてしまった。手元に残ったものはほんの、わずかだ。 こんなことだったら……もっとよく、見ておいたのに。ひとつひとつの言葉を書き留めだってしたのに。耳に声を、目に姿を、忘れないように灼きつけて――けれど。 あまりに無邪気に時は過ぎ、今はもう何もない。取り戻すすべもない。 残ったのはただひとつ――彼の、笑顔だけ。 ゆらゆらと波がたゆたう。 キッドは目を閉じ、顔を覆ったまま、ぼんやりと意識を漂っている。 「バカだなオレ……こんなトコでいつまでも寝てたら、熱にやられて、きっと、死ぬぞ……」 「――分かってるんなら、起きな」 不意に船尾の方から声が降って来る。 キッドはてのひらをどかし、目を開いた。――途端、眼を差す強い日差しに、思わず顔をしかめる。 それでも、逆光の向こうに見えた。小柄な人影。赤い服。二本に分かれた角のような帽子の先で……鈴が、しゃら、と鳴った。
「ツクヨミ……?」 よーやくキッド書いたと思ったら、今度はセルジュが出てきません。どーゆーことでしょう。これでも一応、セルジュ×キッド至上主義者なんですが。これで次に、ダーセル×キッド(しかもちゃんと二人とも作中に登場してくるやつ)とか書いたら大笑いですね。←死。 ……というか、↑この文章じたい、ウチのページ見てなきゃ全く謎ですね。最悪。 私ってばキッド馬鹿(笑)なんで、分かりにくかろうと思いますが、実はツクヨミもひじょーーに好きであります。キッドとツクヨミのシーンのBGMはぜひ、「次元の狭間」でお願いします(笑)。何かイメージがそれなので。 仇敵どうし、表と裏、愛と憎しみと……キッドとツクヨミも、いろんな点で「クロス」しあう存在ですね。 ツクヨミ最後の台詞は、もちろん、トリガーのあのお方から。あのシーンも非常に好きなシーンなのであります。 人間の記憶の曖昧さ……実は「強制的に記憶を奪われた」セルジュよりも、「覚えてたいのに、時間に消されていく」流れを意識せざるを得ないキッドの方が、ある意味つらい気もしてきました。 でもその底にのこる「消せない想い」……それがあのふたりの絆なんだろうな、と。今は思ってます。 |